初場所の番付を机に広げる
二〇二六年九月・月次総評
初秋の湿り気を帯びた風が障子の隙間から書斎の机を撫でていく。老眼鏡を外して置き直すと、今日届いたばかりの刷り物が一枚、静かに広がっている。初場所を迎えた百語の番付だ。西暦二〇二六年九月中旬、季節はまだ夏の名残を惜しんでいるが、机の上だけは新しい時代の序列を告げている。奇妙なのは、この番付の顔ぶれが持つ圧倒的な生活の匂いである。古い柱時計がコチコチと乾いた音を刻むなか、私は湯呑みに目をやった。底に沈んだ煎茶の茶柱が奇妙に曲がっている。今月の番付で最も目を引く異常は、その整然とした偏りの中にある。
一
相撲の番付に倣ったこの一枚は、東西の力学ではなく、人間の欲望の順位を淡々と映し出す。最上位の大関には熟女の名がデンと陣取り、関脇には人妻・主婦が並ぶ。小結の席にはここには書けない行為の語が据えられた。上位三役の席からすでに、生活の裏側にある温度が立ち上っている。前頭の石段を覗けば、四位の巨乳から始まり、瀬戸環奈という人名が前頭三枚目に顔を出している。百語のうち人名の女優が四十二語を占め、上位十位以内には二語、三十位以内には十二語がしっかりと食い込んでいる。数字を追うだけで、人々がどの名を求め、どの属性を愛おしむのかが透けて見えるのだ。
ここで見逃せないのは、名前という記号が持つ魔力である。江戸の昔、吉原細見が遊女の名を細かく格づけし、役者評判記がひいきの役者の芸を競わせたように、人は並び立つ文字のなかに自分の贔屓を見出すことで安心を得てきた。今回の番付でも、十一位のMINAMOや十五位の石川澪、十八位の河北彩花がそれぞれ前頭の指定席に収まっている。名前が刷られるだけで、その文字はただのインクではなく、夜の闇を彩る提灯のような明かりに変わる。人々は文字の羅列を眺めながら、それぞれの脳内で贔屓の顔や声を再生しているのだ。
しかし、ただ名が並んでいるわけではない。属性の語や状況の語が巧みに挟まれ、全体のバランスを保っている。巨乳や爆乳といった体の部位を指す語が前頭上位から中位にかけて適度な重量をもち、電車やマジックミラー号といった状況の語が十両の桟敷でひしめき合っている。幕下のほうへ目を向けると、メンズエステやパンストといった細かい欲望の小道具がひしめき、泥臭いまでのリアリティを醸し出している。これだけの多様な欲望が、一つの紙面上に秩序正しく収まっていること自体が、現代の統計的奇跡と言ってよい。
番付の構造をもう少し解剖してみよう。十両の席には twenty-one から fifty までの三十語が並び、ここは名前とジャンル銘柄が混ざり合う雑多な市場となっている。伊藤舞雪や白石茉莉奈といった名が十両の土俵で汗を流し、その傍らでコスプレやマッサージといった定番の記号が手を変え品を変え登場する。幕下の席になると、さらに裾野が広がり、深田えいみや宮下玲奈といった名が、素人ムクムクや主観といった剥き出しのジャンル名と肩を並べている。江戸の昔、町人たちが富本豊雛や難波屋おきたといった町娘の名を錦絵のなかに探し求めたのとまったく同じ熱量が、この現代の百語の表のなかで脈々と生き続けているのである。
二
冷めかけた煎茶を一口すすると、口の中に乾いた苦みが広がり、思考の澱がすっきりと洗い流されるような心地がする。江戸の昔、文化・文政期の頃から人々は名所や長者を相撲の番付に見立てて面白がった。見立番付と呼ばれるその手の刷り物は、行司や勧進元の名前まで細かく真似ることで、架空の格付けに一種の権威とユーモアをまとわせたのである。今回の百語の表を眺めていると、当時の町人たちが狂ったように楽しんだ格付け遊びの遺伝子が、そのまま現代の欲望の地図へとスライドしているのがはっきりと見えてくる。最上位の大関から十両、幕下の土俵際にいたるまで、隙間なく並べられた言葉たちは、あの江戸の遊び心そのものではないか。
ここで一つの史実を思い起こす必要がある。寛政の改革の折、幕府は町人の娘の名を錦絵に記すことを禁じた。絵師たちはその禁令をかいくぐるために、顔ではなく判じ絵という名のなぞを用いて人物を示し、それでもなお名を欲しがる大衆の飢えを満たそうとしたのである。名前を刷ることを禁じられても、人々は文字の端々にひいきの影を探し、そこに物語を見出した。現代の番付において、女優の名や具体的な属性の語がこれほどまでに細かく序列化されているのは、その残影であり、名前という記号への飽くなき執念の現代的結実なのだと言ってよい。
ところが、歴史の風雪を経てもなお、人が求めるものの本質は微塵も変わっていないという点にこそ、統計の妙味と人間の愛らしさが潜んでいる。東洲斎写楽が役者絵で役の彫り物以上に役者個人の顔立ちを世に問い、それが大評判となったように、私たちはいつでも個別の顔、個別の名前という記号に強く惹きつけられる生き物なのだ。十両の桟敷に並ぶ伊藤舞雪や白石茉莉奈の文字を見るにつけ、また幕下の深いところにひっそりと佇む深田えいみや宮下玲奈の存在を確かめるにつけ、その名はただのデータではなく、夜毎の夢を彩る生きた浮世絵のようにより鮮やかに立ち上がってくる。構造がいかに精緻になろうとも、そこに息づくのはいつの時代も変わらない生身の熱狂であり、番付というシステムは、その熱狂を受け止めるための最も完成された器なのである。
三
湯呑みの底に残った最後の一滴を啜り、老眼鏡の鼻あてを指先でそっと押し上げる。統計の数字というのは正直なもので、百語の表を細かく眺めていくと、きれいに偏った欲望の澱がくっきりと浮かび上がってくるのだ。今回の集計を見て一番に目を引くのは、人名の女優が四十二語という大所帯を占めている一方で、ここには書けない行為の語が九語、体の部位を指す語が七語、属性の語が十四語、状況の語が十六語、そしてジャンル銘柄が十二語という、見事なまでの棲み分けの構造である。上位の席には熟女や人妻といった成熟した響きがデンと陣取り、関脇や小結のあたりで刺激的な語が牙を剥く。前頭の石段を下るにつれて、顔と名前を持つ女優たちが次々と土俵入りを果たし、十両や幕下の桟敷に近づくにつれて、マッサージやパンストといった細やかな小道具やシチュエーションが雑多にひしめき合う。この階級ごとのグラデーションは、偶然の産物ではなく、市場が求める快楽の解像度そのものを映し出している。
数字の偏りもう一つ面白い。上位十位以内には二語しか名前が上がらないのに、三十位まで視線を広げると一気に十二語へと跳ね上がる。つまり、最上位の大関や関脇の席は、特定の個人名よりも熟女や人妻という普遍的な属性の概念が大きな顔をして占拠している。ところが、十両の土俵際や幕下の砂かぶり席に降りていくと、伊藤舞雪や白石茉莉奈、あるいは深田えいみといった個別の名がゴロゴロと転がり始めるのだ。大御所の風格を持つ属性が天辺を固め、個性の光る女優たちが裾野を支えるというこの見事なピラミッド構造は、江戸の昔に吉原細見が遊女の名を位ごとに細かく分類し、客たちがひいきの者を隅々まで探し求めた仕組みと全く同じではないか。人々はまず大きなジャンルという大通りを歩き、やがて細い路地裏へと迷い込み、自分だけのひそかなお気に入りという名の宝物をその手で見つけ出す。統計の冷たい数字の裏側には、いつの世も変わらない、路地裏を覗き見するような人々の圧倒的な好奇心が脈々と生きているのである。
古い柱時計が時を告げる重たい響きを聞きながら、冷え切った机の上の番付表をもう一度見下ろしていると、不思議と一枚の西洋絵画の構図が頭の片隅から浮かんできたりする。それはサンドロ・ボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』という一枚の名画である。波の泡という名前もない混沌とした大海原のただなかから、貝殻の上に立った美しい女神がふわりと姿を現し、周囲の風に吹かれながら地上へと迎え入れられるあの有名な場面だ。これを今回の百語の番付になぞらえてみるのはいささか強引なこじつけかもしれないが、何もない無名の海から個別の名を持った女優たちが次々と浮き上がり、見事な序列を形作っていくその様は、現代のヴィーナスたちが欲望の波間に誕生する瞬間そのものではないか。絵画の中で貝殻に立つ娘が一世を風靡したように、この表のなかに並ぶ無数の名もまた、夜の闇に浮かぶ一筋の光として人々の視線を一身に集めているのである。欲望の海原に名が浮かぶとき、すべての雑多な記号は一つの神話に生まれ変わる。
書斎の片隅に初場所の記録を年末に一冊にまとめる趣旨の年鑑をそっと手に取り、そのずっしりとした手応えをしばらく確かめる。西郷の街の居場所の情景が遠くの窓辺で夕闇に溶け込んでいく。今宵もまた誰かの名が誰かの夢を彩るという小さな奇跡が、この静かな部屋のなかにそっと積み重なっていくのである。